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価​値​と​承​認​に​汚​染​さ​れ​た​我​々​は​、​い​つ​し​か​捧​げ​た​半​分​の​身​体​に​支​配​権​を​奪​わ​れ​て​い​た​。​だ​か​ら​こ​そ​、​私​は​私​の​正​気​を​取​り​戻​す​た​め​、​血​の​滲​ん​だ​こ​の​映​像​を​電​波​に​流​す​必​要​が​あ​る​。

from 思​考​実​装 by ukiyojingu

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about

電波に自身を乗せて流している私たちはすべからく、必ず他者に見てもらいたい、あるいは承認を得たいという感情を抱えている 。私たちはそれを無視することはできない。だが、その欲望に過剰になればなるほど、私たちはいつの間にか数学的に管理される承認そのものによって、駆動させられてしまうことにもなる。本来の目的を喪失し、数学に支配されてしまった私たちのことを、この映像では「情報空間上のゾンビ」と呼んだ。私たちは自分自身を表現したいが、それを電波に乗せている以上、ある程度のエンコードを受ける必要がある。つまり、私たちは半分だけ自分自身を表現し、電波に流しているのだが、情報空間上のゾンビたちは、他者に自分の表現を伝達するためにささげた半身が逆説的に、本来の自分を汚染することによって生まれてくる存在だろう。

情報空間上のゾンビにならないために、どのような方法を考えるべきだろうか。私の血液と、私の呼吸と、私の思想は唯一無二のものであると、私は本当に言えるのだろうか。数学から解放されるにはどうしたらいいのか?音楽であることをやめればいいのだろうか?あるいは、口をつぐみ、耳を塞いで、何もしないべきなのだろうか?

これまで私は、新しさを作るための試みを自分としてはやってきたつもりだ。それは時に30分間にも及ぶ日記の記述や(→実装#2)、自身の楽曲の解体と再構築(→実装#4)、未完成の表出(→実装#3)、そして呼吸の挿入(→実装#5)などだ。それらは私自身にしかできない要素を詰め込むがために作り上げられたはずだったが、どこかで限界が現れる。しかし、そこにあるものを超えることによって、何か新しい世界が見えてくる気もする。だからこそ、私は今日もこの意味不明なことを続ける必要があるのだと、考えている。(ニコニコ動画の投稿者コメントより)

lyrics

1.はじめに

この文章が読まれている今、あなたは何をしているだろう。
私は自分の部屋にこもり、画面に向かって文字を入力し続けている。
この映像と時間に、大きな意味はない。だが、音楽を流してしまうとたちまち、すべてが台無しになってしまうような恐怖に駆られてもいる。だからこの時間は、静寂のみが続いている。無理難題を私は画面の向こうの僅か数十センチの先にいるあなたに問いかけるのかもしれないが、どうかこの言葉を最後まで聞き取ってほしい。これから私は、自分がどうしてこのようなものを作ろうとしたのかを話していきたい。

2.私たちはどうして、自分自身の声を捧げているのか

作り手であり聞き手でもある私たち全員にとって、合成音声音楽とは何だろう。そもそも私たちはどうして、多くの人が自分自身の声を持っているにも関わらず、あえて合成音声音楽に声をゆだねているのだろう。こんなことを不意に思ったのは、電車の中で田園風景を見ている時だった。ライブハウスで積極的に演奏していたかつての自分にとって、作曲した人が歌を歌うことがごく普通のことだと思っていた。声は他の誰にも複製することはできない、自分自身の唯一無二性を持ったものだと思っていた。声だけでもはやその人が誰であるかを特定することも容易いだろう。現実世界に生きる私たちは誰の声を奪うこともできなければ、与えられた唯一の声を抱きしめながら生きるしかない。しかしながら、合成音声音楽はこの声を平面化してしまう。数値を変えることによって若干ながらのバリエーションを生み出すことはできても、やはりそれは統一された声として見なされてしまう。こうした世界は、自分だけに許された唯一無二の声、その肌理を放棄してしまう行為だ。にもかかわらず、私は今こうして自身の喉を切り取り、止血し、デジタルなソフトウェアを代わりに埋め込んでいる。どうしてだろうか。

3.半身を捧げることによって接続される私たち

 私は昔から、インターネットと心理学に興味を持っていた。ひどく病んでいた高校生時代、電子辞書で精神病について調べていた時に精神分析に出会い、読書が大嫌いだった自分が突然100年前のドイツ人の著作を読みだすことになった。やがて大学に進学し、大学院にも進学し、見聞を広げながらずっと同じ学問ばかり見てきた。大学院でのテーマはインターネットと無意識についてだった。インターネットは私にとって、電波によって世界が一つになるような新しい時代の希望のように見えていた。
 紛れもなくメディアの一種であるインターネットは、文字通り媒介として多くの人々を接続し、情報を行き交わせてきた。その登場時にこそ新しい空間として政治的な運動もあったものの、多くの場合はアンダーグラウンドの新しい文化として、少なくとも私たちのいる日本では受け継がれてきた。合成音声音楽ソフトたちはそんな文脈の中で登場し、やはり社会の裏側でひっそりと受容されてきた文化から生まれ落ちた存在であったはずだった。私たちは彼女たちに自身の声という唯一無二なものを捧げることによって、裏側に存在する集合体に合一することを可能にしてきた。いわば、半身を捧げることによって、私たちは繋がることができたのであった。

4.ほかの誰でもない自分自身を作るために

 そうした繋がりかたは、自分自身の声を犠牲にすると同時に、自分自身の声では再現できない理想形へと作り手の思想を表現するための方法ともなり得てきた。精神分析の思想を借りれば、私たちは常に自身の内面にしか存在せず、外部へ伝達するためには記号へ変換しなければならないような想像の領域を有している。自分自身の感情や思想は記号や表現によって誰かに伝えることができるだろうが、それを記号や表現に変換している時点で、そこには確実に何かが零れ落ちている。言葉にならない感情が私たちには数多くあったはず。私たちにはそれを救い上げることはできない。だからこそ、零れ落ちるものをできるだけ少なくする必要がある。合成音声音楽はそんな私たちにとっては救済だっただろう。自分の声では決してできない領域、そして他者にゆだねることもできない領域のかなり近いところまで、合成音声音楽は接近することを可能にした。そうして、私たちは合成音声音楽に半身を捧げることになる。
 ところが、そうして半身を捧げることによって私たちは、自身の意図するに関わらずに接続されることになる。合成音声音楽ソフトに捧げた自身の半身と、裏側の世界で共有されてきた合成音声音楽の世界はこうして出会うことになる。私たちは一方で誰かと繋がるために合成音声音楽を用いて、そして誰のためでもない自分自身を表現するために合成音声音楽を使う。誰かと溶け合うこと、そして誰でもない自分自身を表明すること。合成音声音楽は私たちに両義的な空間を突き付け、私たちはそんな曖昧な世界の中でたわむれながら、簡単に言葉を電波へと流している。繋がるための記号として、自分自身を表明するための記号として。

5.情報空間上のゾンビを前に

 ところが、私たちが繋がりを求めてから時間が流れ、合成音声音楽も大きく変わり続けた。合成音声音楽という言葉が出始めたころ、誰もインターネットが世界を繋げて一つにするという夢を本気で信じる人はいなくなっていた。目前に積み上げられる瓦礫の山と無数の虚構たち。論理的思考による人工的な管理体制の構築。私たちはデータベースの中から情報を引き出され、個人に適切な情報を提供されるようにカスタマイズされた環境の中に生きることになった。あらゆるものの価値がかつてないほどに重視されるようになったことで、私たちが裏側で暗躍するために用いてきた記号も適切な管理の下で維持されることになり、私たちが唯一無二だと思っていた半身はいつの間にか、数学的に処理されることになった。数学的存在として生きることが当然となった私たちにとって、その向こう側に向かうことは常に憧れであった。誰しもが「こういう音楽が人気である」ことを意識せざるにはいられなくなった。そして、唯一無二の半身を失った情報空間上のゾンビたちが、数学と反数学との間で共食いを始めている。
 私はずっと、この光景を傍観してきた。私は唯一無二の新しい光景を作り上げることをずっと考えている。この時代において何をしようとも、全てはカテゴライズされ、聞き手の感情により沿った音楽として合理的に提供されてしまう。この映像を見ている画面越しわずか数十センチにいるだろうあなたは、私とどう出会ったのだろうか。私は私の血液が流れ落ち、次第に肉体が腐ってしまうことを恐れている。半身を失い、情報空間上のゾンビとなってしまうことを忌避する。では、どうしたらいいだろうか。この映像と音楽は私にとって、一つの実験である。私の人生、私の思想、私の血液は決して誰のものにもなるはずはない。それは紛れもなく私だけのものであり、これこそ現実そのものなのだから。この音楽のない「現実」によって、失った私たちを取り戻すのだ。

6.私たちの半身を取り戻す

 私たちはどうして、合成音声音楽ソフトに自身の声をゆだねて電波に流しているのだろうか。そこにあるのはおそらく、私たちの半身を集合的な記号に委ねることによって生じてくる、連帯のメカニズムであるだろう。そうして、私たちは半分だけ一つになりながら、残った半分の身体で自身を歌い上げている。残された半身はさらに、新しい誰かによって別の要素を付け加えられ、再度新しいものへと変身していく。私たちの言葉はそうして、電波を通して繋がることを望みながらも、みんなが同じものとなることは拒否している。
 この映像はそれらに対するハッキングだ。私たちは半身を電波に流すことによって、固有性を維持しながらつながる場所を見つけてきた。しかしながら、私たちが委ねていた半身に、私たちはいつの間にか支配されつつあるのかもしれない。電波に支配され、誰のものでも無い血液を忘れてしまっていないだろうか。
 だとすれば、私たちの半身を取り戻す場所を作る必要があるかもしれない。膨大にあふれた音楽たち、その中で自身の好みの場所のみを選別される音楽たち。この退屈で、しかも音楽とも言い切れないこの時間には、そうした電波に支配されてしまった身体から自分の半身を取り戻したいという、私の思いが内包されている。もちろん、私も半身を電波に委ねている以上、誰も私を擁護できないかもしれない。だが、それでも流してみようと思うのだ。この退屈な時間はきっと、電子化され0と1で構成されてしまった私たちの身体に、確実に赤い血液をしみこませてくれると信じているからだ。

7.おわりに

 この文章が読まれている今、あなたは何をしているだろう。
私は自分の部屋にこもり、画面に向かって文字を入力し続けている。
数多くの楽曲が投稿される中、私の話を最後まで聞いてくれた人は、どれくらいいただろう。ここまで私の言葉を飛ばさずに聞いてくれたのであれば、感謝の言葉しかない。つまらない言葉だったかもしれないが、なんでも快適になり過ぎた今の私たちにとっては、こんなつまらなさと不愉快さこそ、本当に必要なものではないかと強く思う。私たちは不愉快なものから目を背けすぎた。なんでも快適に過ごすことに慣れてしまった。だが、私たちの目の前にある現実にいつまでも目を背けることなどできない。決して自分の声に再度回帰する必要はないが、私たちの全身を情報空間上に投げ出してしまうと、私たちは何者にもなれない。或いは、私たちが捧げた半身から、すでにデジタルな侵略が始まっていることに、私たち自身が気づいていないだけなのかもしれない。こんな時代だからこそ、私たちの現実を取り戻し、深く負った傷から流れ落ちる血液を愛せるような日々が必要だ。だからこそ、私は残った私の半身に、この言葉を捧げたい。

credits

from 思​考​実​装, released December 30, 2022

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