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思​考​実​装

by ukiyojingu

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1.
2021年の初夏。けだるい暑さから逃げるように部屋の外に出た。 最後に音楽を作ってから、もう3カ月は経過しようとしていた。忙しくて何も作れなかった私は、一方でどのようなものを作ればいいかを悩み続けていた。こうなることは、2019年に10曲の区切りで音源集を出すことを決めたあの時から、すでに決まっていたことだった。あれらは今でも、私の中での最高傑作のままである。そして、それを乗り越える方法を考えることが、今の私の課題である。 照りつける京都の日差しが8階の住まいにとっては耐えられない暑さとなって、私は自転車でどこか涼しい場所へ出かけようとする。京都市は南に降りるほど、下り坂だ。帰りの自転車が上り坂になってしまうが、私は南向きに自転車をこいだ。特に目的は決めていない。とりあえず動けば何かに当たるだろうと、私は自転車で走るだけだった。 この文章は、私が浴びている照りつける日差しを聞き手に想像させられるだろうか。かつて私は、新しい言葉を見つけるためにどのような試みができるかをめぐり、いろいろなことをしてきた。それらはある程度の枠組みの中で、明確な目標を持って作られた。だが、それらの実践は不完全な結果となり、さらなる試みを今後の私に要求してきた。 これから、私は何をすべきなのだろうか。言葉にこだわり続けた私は、それが持つ曖昧さが私たちのすべてを解釈の世界に閉じ込めていること、その曖昧さこそが私たちに新しいものを提供し続けてくれることを、これまで訴え続けた。私たちの言語の曖昧さは、京都市内を自転車で駆け降りる光景を聞き手の頭の中に無数に想起させる。言葉を受け止める過程で、私たちは言葉を耳で受け止め、そして脳内で理解し光景を作り上げる。そこには、私たちの解釈の中で必ず必要な、極めて短い時間がある。言葉の意味を解釈するためにわずかな時間が必要なのであれば、時間を伴う創作手段である音楽は、いったい何ができるだろう。 言葉に限らず、得体のしれないものに直面した私たちはそれを解釈するために時間を費やす。得体のしれないものとは私たちの知らない別世界の言語だけでなく、唐突に目の前で起きた事故や、あるいはこの定期的に組み込まれる不快な音である。得体のしれないものに対する解釈の枠組みをこれまで持っていなかった私たちは、それでも新しい解釈による乗り越えを試みる。この隙間に、私がこれまでおこなってきた言葉をめぐるいくつもの思考を、音楽として実装するための余白が隠されているのではないだろうか。一定時間で挿入される不快な音は私たちの意味を解体し、これまであった世界と全く異なった新しい世界へ、私たちを連れて行ってくれないだろうか。 この隙間より、私は言葉が一人ではなしきれない世界を音楽と映像とともに探しだしたい。その終着点はまだ決まっていないし、何が生み出されるかは予想できない。この音楽がそうであるように、得体のしれないものが錬成されていくのかもしれない。しかし、そこに安直な意味を見いだしてはいけない。もう引き返すことはできない。私たちの生み出している得体の知れない何か、その得体の知れなさを思考することが、私たちの新しい世界だ。
2.
2021年7月7日 研究報告を終え、思考停止しきった自分の頭を、身体が引きずって家に帰った。パソコンを開いて、何も考えない。自由連想のように、今こうして文章を作っている。今何かを入力しようとしていたのだが、すっかり消えてしまう。今、何を考えていたんだろう。私はよく自分が数秒前まで考えていたことをすっかり忘れてしまい、その数秒前を思い出すために数分間をかけてしまうことがある。こうして書いている今この瞬間も、私はスマートフォンに到着する就活サイトからのメールによって、思考を中断させられてしまう。そうした忘れ去られた私の断片は雑音となって、この音楽のように消え去ってしまう。 最終的な結果が重視される今の世の中において、その過程でどのようなものがつくられ、そしてそれらがどのようにして消えていったかは問題ではない。結果だけが残された世界で、ノイズリダクションのように拒否された微細な雑音たちはもはや価値すら見いだされない。綺麗に整備された音たちはあらゆる処理をかけられ、私たちに美しい世界を提供してくれる。それらは人間の耳に快適さを提供するよう編集され、私たちの欲望を埋めてくれるように計算された結果が現れている。だからこそ、私たちはきっと見捨てられた雑音たちと、そこにいたはずの幽霊に目を向けなければならない。 私は雑音にならなかったものたちを拾い上げて、この雑音を作っている。この時間の背景にも、私が拾いきれなかった無数もの雑音たちが足元に転がっている。彼らはもう私によって拾い上げられることも無いまま、雑音の彼方へと消えていく。 何でもすぐに思い出すことが可能な拡張記憶が人間に実装されないだろうかと、常に思っている。それはまるで、パソコンの外部ストレージのように。私たちは自分の都合のいいように物事を記憶し、自分の都合のいいように物事を忘却してしまう。そうして私たちは人間らしく、独善的に生きていくのだ。私が機械になれたら、こうした独善的な方法を取らずともいい方法がきっとあるのだろうが、どれだけ人間と機械が接近しようとも、人間は機械になれない。機械が人間になろうとしているのにもかかわらず、この仕打ちは一体何だろうか。そうしてなお、私はかろうじて人間を続けているのだ。今日も、明日も、明後日も。私たちは変わることなく、人間を継続するだけだ。 2021年7月9日 連日の苦労のせいか、全身に蕁麻疹が出てしまい休んでしまった。いろいろな意味で疲れ切ってしまいながらも、意外なほどに元気だった私はベッドの上で文章を書き始めている。骨折はそこそこあったがあまり病気をしてこなかった自分にとっては、こういう機会はなかなか珍しかった。思えば、予防接種などもこれまであまり受けてきた記憶がない。だからこそ、私は注射には慣れていないし、まるで身体改造をなされているような気になり、あまり好きではなかった。 幼いころ、私は一度入院し、死にかけたことがあった、骨折程度なら何度も経験したが、入院もそのときだけで、そのほかに大きな入院は無かった。そうした私だからこそ、病院にも、手術にも、注射にもなじみが無かった。私の中では手術を施すことと注射をすること、そして耳にピアスを開けることと刺青を入れることは、等しく自身の身体に意図的な改造を加えている点でともに身体改造をいうに値するものだった。それらはみな、自分を否定し、拡張することによって自身を改造している。 だが、そうした身体改造は決して彼らだけの話でもなく、私たちも他人事ではないだろう。私たちは電話の登場とともに、何時でもどこでも誰とでも会話ができる技術を獲得した。そうした技術の獲得は、身体そのものとは直接的に関係しないものの、私たちの感覚意識をことごとく変えてきた。こうして文章をどこでも打てるようになったことも、私が思いついたことをすぐに記録することを可能にした点で、大きな変化だ。 私たちはこれからも数多くの拡張機能をインストールしながら、感覚をアップデートさせていくだろう。そうして、私たちは指数関数的に新しくなっていく。その速度は、ほんの半年前の出来事をかなり昔のことにしてしまう。そんな変化のスピードに、これから先の私たちはどれだけついていけるのだろうか。追いつけなかった存在(ひと)たちは、その先にどうなってしまうのだろうか。 2021年7月12日 SNS上で人を声で会話する。生まれつき、パソコンが回りにあってもスマートフォンはなかった自分にとって、自分自身の声を躊躇なく他人に公開することは、恐怖を覚えることだった。だからこうして、私は自分ではない声によって、自分自身を拡散させている。 私は、自分自身の声がとても苦手だった。自分の声をそのまま録音してしまうことに、抵抗があった。自分はどうして、こうなっているのだろう。そういえば昔、自分自身の作った音楽を自分自身で歌って、それをネットに挙げたこともあった。そして、それを笑われたこともあった。だから、私は一人で、こうして音楽をつくる選択をしたのかもしれない。 2021年の今、あらゆるサイトで自分の声をそのまま載せてしまうことがあらゆる場所で行われている。私はそれが怖かった。というのも、声は文字とは一線を画すほどの大きな影響力を持った、特別な存在だったからだ。私たちの声は皮膚や血液と同じように、私たちが自身を意図的に改造しない限り、決して変えることのできないものだ。それは、私たちが何者であるかを決定する不可欠な要素である。そして、それを映像や音声で残してしまうことは、私たちにとって変えられることのできない変換不可能な自分自身を拡散することにあたるだろう。 そうした声たちは、私たちの存在を証明するためだけに、今ここにあるのかもしれない。しかし、そうした私たちの声もまた、複製される大多数の音声のなかに紛れ込み、インターネットによる「すべてをアルゴリズムに回収する」論理によって、無に帰すこととなるのだろう。私たちの声はすべて数値に変換され、数値に変換不可能なものは無かったことにされる。そうして、私たちの価値は雑音の彼方に消えていく。 2021年7月16日 SNSを開くと「サマーウォーズ」という言葉がトレンドに乗っている。今日は地上波での放送日らしい。「よろしくおねがいします」の言葉とともにエンターキーへと指が振り落とされる様子は、もう何度も見てきた。テレビが自室にないために同時視聴することができないのがなんとも残念だったが、こうした夏のアニメ映画の放送とともに、私は強制的に夏の到来を感じさせられた。 この映画は私にとって、失われた2000年代の残像のように見える。だが、私はそれを語る資格も、さして持ち合わせていないかもしれない。幼いころ、私は海外で生活していた。そんな私にとって、日本はある意味、貴重な場所だった。海外の幼稚園に通っていた私にとって、日本は年に1回くらいしか訪れることができず、そういう意味でどこか海外だった。そうしたことから、2000年代というものについて、私はぼんやりとしか認識していない。かつて幼稚園から小学生のときに流行していた「デジモン」も、私はほんの少ししか知らなかった。 そんな私が、かつてのインターネットについて本当に語ることができるのだろうか。私の知っているのは、インターネットのアルゴリズムに支配された論理的な世界が少しずつ崩壊していった過程だけだ。それ以前のことを全く知らないわけではないが、すべてを知っているとは到底言えない。私は過去に知っているが知らない記憶に対し、当時書かれたものからその状況を推察し、そして今こうして文章を打っているに過ぎない。だがそれは、かつて本当に時代を経験した人に対し、どのように見えているのだろう。 私がすでに書かれたものから再度作り出している私の2000年代は、もはや現実社会に起きた2000年代とは程遠いかもしれない。私たちは過去にあった出来事を今この世界で、あるがまま再現することはどうしてもできない。それはもはや別個の事象となってしまうだろう。過去は消えず、事実は永遠に雑音の中へと閉じ込められていく。そうして、今年も夏が始まっていく。 2021年7月18日 就職活動のなか、いろいろな方面にメールを打ち続けている。ここ最近で2社にエントリーシートを出したものの、一社は面接で不採用となり、もう一社は書類選考の時点で落とされたようだ。書類選考にすら至れない場合、もはやエントリーシートが先方に到着したのかどうかも分からないまま、何の連絡もなく落とされてしまう。そうして、私は私自身の社会的意義を考え始める。 大学にいる間、自身の研究の社会的意義についてよく問われることがあった。芸術や創作が好きな私の研究は、その社会的意義がなんであるかを明示化することは難しかった。それ以上に、芸術そのものが社会的にどう意義を持っているかを考えることも、また難しいことだろう。それらはもともと、人間が思考を巡らせていたる領域の外側にいたはずだった。芸術は思考の外側にいるからこそ、芸術だと思ってきた。そうした私の考えは、もう通じなくなっているのだろうか。 面接以前のエントリーシートの段階ですら、自己アピールという名前の元で自分の社会的意義を唱えなければいけない箇所が設定されている。私は外面上だけでも自分自身のアピールポイントを用意し、それをつらつらと書きだしていくが、自分のアピールポイントを自分が分かっていることさえ、どこか不思議な感覚に襲われてしまう。自分自身のことをどうして、自分自身が分かっているのだろうか。そもそも、自分自身のことを自分自身が知っている必要は、本当にあるのだろうか。人間は、すべてが正しくわかりやすいものではなかったはずだったのに、自分自身のアピールポイントを主張することに、どういう意図があるのだろう。 私たちは私たちを数値化し、そして数値化できない私たちの余剰をどうしたらいいのかについての方法を知らない。すべてを数値化できないことを知りながらも、数学的世界の到来を前に、なす術もないのだろうか。そうして、私たちの余剰は雑音の中に埋もれていくことになる。 2021年7月20日 特に何かを書こうにも何も思いつかないまま、今日もパソコンの画面の前でこうして文章を自動筆記している。私は何かを書こうと思ったときに何かを書いているというよりも、適当に何かを考えていたら勝手に文章が始まることが多かった。それだけ、私の中には伝えなきゃいけないことがまだまだあって、それが喉元まで出かかっては消えていくことをこれまで何度も経験してきた。 文章を書くということはいつも、何かを捨て去ることだった。大学では何かを勉強することは何かをあきらめることと同義であると耳教えられた。私は文章を今こうして書きながら、何か一つの論理を作り上げていくさなかで、その背景にあったであろう無数もの雑音を拒否している。そうして作り上げられた私の文章は、果たしてその背景にある無数もの雑音よりも価値のある言葉を形成しているのだろうか。 そうした苦悩を伴いながら、私たちは死ぬまで文章を作り続けるのだろう。これから先、たとえあらゆる事象・現象を記録することが可能になろうとも、記録スイッチを握るのが私たちであるのなら、私たちが私たちの記録を管理することができるはずだ。それはこうして私が文章を書き連ねているときに何を選択するかという意志と、あるいはどんな映像を録画するかを選択する私の意志に関係に関係している。どれだけ技術が私たちの想像力を超えようと、その技術を使用するか否かを判断するのが私たちなのであれば、何一つ進化はしていない。 だとすれば、私たちは進化すべきなのだろうか。もしそうなのだとしたら、こうして私が自由連想的に書き連ねているすべては無用な存在となるのかもしれない。しかし、私たちはそれがすべてではなかったはずだ。私たちの本質は言語化できないものであり、言語化できない迷いとコンプレックスこそが、私たち人間の人間性と称することのできる存在だったのではないだろうか。そうした、私たちの雑音は今、どこにあるのだろう。全自動に伴う最適化された未来で、雑音はきっと完全に消し去られてしまう。 2021年7月23日 実感すらわかないまま、東京オリンピックの開会式が開催された。実家で23時まで見続けたは果てに、今こうして文章を書いている。よくわからない演出もいくつかあったように思えるが、ここ数日の開会式をめぐるトラベルの連発にも関わらず、本当に今日開会式を迎えることができたことには驚きを隠せない。きっと、名前も表に出てこない数多くの現場の声が背景にはあったのだろう。彼らに私は心の底から尊敬の念を覚える。 思えばここ数か月、まるでネット炎上を見ているかのように飽きることのない数日間を過ごしてきた。ネット上では件の感染症とオリンピックとのどっちが勝つかを巡っていろいろな人がいろいろな小競り合いを繰り広げ、私はそれを見ているだけだった。結局、感染症は根本的な解決もしないまま開催もされたわけだが、いずれにせよ東京から遠く離れたこの京都からすれば、それほど実感もなかった。無観客開催で外出も自粛され、そして一人暮らしの自室にはテレビもないとなれば、もはやオリンピックが日本で開催されようが国外で開催されようが、大きな変化もない。開会式がなされたところで、特に京都市内に観光客が増えることもないのだろう。 京都はこの数年で劇的な変化を遂げてきた。昔から京都に暮らしてきたわけではないのだが、一家は代々京都に住んでいたこともあり、京都には縁があった。今では京都で暮らしているわけだが、数年前までは日本語以外の言語も数多く聞こえていたはずなのに、今ではもはや、外国語も関西弁以外の日本語も、耳にする機会が減った。通学によく使用していたバスは4月から運休になってしまい、別ルートで大学に向かうことも増えた。2年くらい前までの京都における尋常じゃないまでの観光客の多さもそれはそれで異常だったのだろうが、それがまるで一人もいなくなってしまった今の京都も、私には異常な光景に見えていた。 開会式が終わり、これから先に京都は以前の光景を取り戻すのだろうか。だとすればいいと思うが、その反面で、私は日常に回帰するさなかで今この異常事態がどのように残されていくかを考える必要があると思った。バスが運休されたこと、人がいなくなったこと。それらはじじつとして残っていくのだろうか。それはまるで、開会式の前後に起きた様々なことがこれから先に雑音とみなされ、少しずつ歴史から消え去っていくかのように、なかったことになるのだろうか。 2021年7月26日 高校生のとき、数学が嫌いだった。高校の先生の話はまるで聞いていなかったし、そんな私が高校の定期テストで点数を取れるはずがなかった。2年生だったか、シグマを覚えられずに断念し、とうとう国公立大学に行くのもあきらめた。それからもう何年も経ったが、今では都合上、相対性理論や非ユークリッド幾何学についての話を耳にするときに、分からないなりに目を通すようになった。 数学はわかりやすくて素敵だと思う。すべてを数値に解明してしまえば、私たちはきっとすべての事象について勝手に悩む必要もなくなるのかもしれない。全人類を数学的に考えてしまい、感情の一切を排除し効率的に駆動させるだけで、世界のどれだけの問題が解決するだろう。そういったことは、昔からよく考えてきた。そういった感心が私を心理学へと突き動かしたと思うが、しかし大学で心理学や芸術を勉強しながら得てきた自身の知見は、決して数学的なものではなかったと思う。 世界そのものは偶然的な存在と、数学で成立している。そうした世界を、私たちは私たち自身という色眼鏡をかけながら見つめている。それによって、あまりにも合理的に動いているはずの世界そのものを、私たちは直視することすらできないままでいる。その色眼鏡を果たして私たちの感情と呼ぶべきものなのかはわからないが、少なくともそれに準じるものなのだろう。 この世界は数学で、ゆがめているのは私たち自身である。その歪みの集合体がきっと宗教であり、政治であり、今の世界そのものの成立に大きく関与しているのだろう。出来上がった想像の共同体は私たちを大きく成長もさせてきたし、今ではそれらは小さく分裂しながら、小規模に私たちを支えている。だが、それさえ無くなりかけているのも事実だろう。私たちの消えゆく想像で、これから先に何が生き残っていくのだろうか。生き残れなかった想像は、或いは雑音の彼方に消えてしまうのだろうか。 2021年7月29日 2年ほど前に執筆した論文の原稿についてのリアクションを始めていただいた。恐れ多くも存じ上げなかった方から連絡を頂き、とても嬉しいかぎりだ。ネット上であったこともない人とメッセージとやり取りしたり、会話をしたりはこれまで何度もあったが、封筒という形で連絡をもらったことは初めてだった。事務局宛てにお送りされたメッセージをもらいに行くために、私は自転車で京都の坂道を駆け上がる。 今どき封筒にメッセージを郵送することなどあるのだろうかとも思いながら、事務室から郵便物が来ているというメールを受け取ったときの私は半信半疑だった。もしや、人違いでないのか、とさえ思っていた。論文はもう2年も昔であり、それほど読まれることもないのではないだろうと、私の中で勝手に判断していたからであった。そうした私の予感とは裏腹に、私宛てであることを確認し、家に持ち帰った。 電子メールの発達したこの時代で、文章を郵便物で送るなどということを、私はこれからの人生でどれだけするのだろう。あらゆるものがデータとなり、記号として変換されていく中、封筒に書かれた差出人の手書きの筆跡は、私にそんな思いを突き付けてきた。今私がこうして入力している文章は手書きではなく、ワードファイルにキーボードで入力することで作られている。そしてその文章を、私は人工音声の読み上げソフトに代弁させている。こうして作り上げられているこの音楽は、いたって記号的だ。そんな状況を前に、私に宛てられた手書きの筆跡は、記号以上に大きな意味を私に与えてくる。あらゆる筆跡が失われつつあるこの時代の中で、それらはやがて雑音として処理されていくのだろうか。そうしたとき、この文章は一体何を伝えることができるのだろうか。だからこそ、私は今こうして、これから雑音とみなされていくだろう残骸たちを前に、それを一つずつ拾い上げていく。私たちの筆跡の持つ意味が行き先を失って、瓦礫に埋もれてしまわないように。 2021年7月31日 今月二回目の研究報告を終え、夜22時の電車に乗って京都を出る。以前と比べ明らかなほどに人がいなくなった電車の最後尾の一番後ろの椅子に座って、向こうに止まっている各駅停車の発車を見送った。京都を出る電車はゆっくりと出発し、私を載せて地下のトンネルを走り出した。 報告はオンラインで行われたが、そのさなかでいくつものトラブルに見舞われていた。リハーサルではしっかりできたのに、本番となるとマイクのミュートをつい忘れてしまったり、映像がうまく再生されなかったりした。有線に繋いだはずの自室のパソコンでは、オンラインミーティングに映像を載せることも難しかったのだろうか。そう思いながら、私は今こうして話しているこの映像すら、正確に視聴者に受容されていくのだろうかと、ふと不安に思うのだった。 オンラインで流れるこの映像はアルゴリズムに翻訳可能な要素しか伝達しないが、いざそのアルゴリズムそのものさえも伝達してくれないのであれば、もはや何も信じるに値するものは存在しない。私のこうした文章の吐き出しも、延々と録音し続けた約30分間の雑音も、そのすべては受容者に正確に伝達するために存在している。アルゴリズムのバクによって私の文字が伝達できないのは何とも悲しい事実であるが、一方でそうした変化は決して、全面的に悲観的なものでもないだろう。アルゴリズムのバグは私たちに違和感を与え、不快感を生み、そして隠れた人間性を出現させてくれる。そうした隠れた人間性こそ、私が求めているものだ。 人間は全くもって論理的ではない。私たちは感情に突き動かされ、ときに哀れなほど同じことを繰り返す。だからと言って、私たちは完全な論理の世界に閉じこもることもできない。そんな私たちのバグを模倣する様に、オンラインミーティングは失敗し続ける。私が流すことに失敗した映像は、アルゴリズム的世界における失敗作であるものの、アルゴリズム的世界から逸脱した新しい存在だ。だからこそ、私はこの雑音を愛してゆくべきだ。 SNS上でのやりとりや上司とのメール、飲み会での友人との会話や両親との他愛ない話、そのすべては平等である。なぜなら、私たちは数学だからだ。そうしたなか、私たちの身から剥がれ落とされる微細な雑音は、どこを彷徨っているのだろうか。私の生活は終わることもないまま、意味のない雑音は延々と生産され続ける。今日も、明日も、明後日も。
3.
私は一体、何を作っているのだろう。 私は一体、何を成し遂げられるだろう。 無数の考えが私の頭の中を回転している。 無数の考えが私の中身をむしばんでいる。 言葉を吐き出して、吐き出し続けて何もなくなってしまったその先にあるのは、瓦礫だけだろうか。 私は私が生き延びるためだけに、今ここで逃走線を引く。 そのために、あの鉄の匂いから逃げ切るために、 私は私の手首を切り落とし、そこに私の血液を注ぎ込む。 この切り落とされた手首から流れる鮮やかな真紅は、 画面上わずか数十センチにしか満たないあなたに、 どれほど伝わるのだろうか。 生まれ落ちてしまった三分にも満たない瓦礫の上に滴る 私の唯一無二の鮮やかさを、どれだけ伝えられるのだろうか。 私の倒錯された盗作を、あるいは許してくれるだろうか。 きっと、誰かが。
4.
都市の縺ゅj譁ケ縺ォ縺、縺�※遘√◆縺。縺ッ蜻シ蜷ク繧偵@縺ヲ縺�k縲�
5.
呼吸が聞こえる。 それは私に固有名詞を与えてくれている。 痙攣した私の言葉は、行き先を失いながらも彷徨い続ける。 そこに、言葉といえるものは恐らくもう存在しない。 私は、私の耳に聞こえくる、私の呼吸に縋るのだ。 呼吸が聞こえる。 それは私の唯一無二のものであると信じている。 私は考えることなくそれを繰り返している。 それは無意識である。 それは私によってなされるが、私の意図するものでない。 そこに、私は内在しない。 呼吸が聞こえる。 そこに私の意図は介在されない。 身体器官によって制御されているだけに過ぎない。 それは制止されることはない。 制止できない。 私は私によってなされるそれを、ただ横で立ち尽くして見ているだけだ。 呼吸が聞こえる。 私は、どこかで言葉を捨てないといけないのだろうか。 言葉に固執し続けることによって、過剰に意図を考えることによって、私は何もできなくなりつつある。 そうして、言葉が無くなっていく。 最後には、呼吸だけが残る。 呼吸が聞こえる。 それはもはや私の思考した果てに残る、何もなさを証明しているようである。 使い切られた言葉を売って、痙攣する身体に再度、血液を与える。 そうして、私は行き場を求めて、 どこまででも彷徨い続けることができるだろう。 呼吸が聞こえる。 この無意味な反復は、それこそ私の美学であると、 本当にいえるのだろうか。 言葉は混乱を極めている。だからすべてに限界があり、 本質は無意味なものとなる。 この限界の向こう側へ、呼吸は誘導してくれるのだろうか。 呼吸が聞こえる。 私の意図を介さず、全く持って無意味にそれは継続される。 誰によって指示されることなく、誰によって支持されることなく。 意味なきそれは、私の身体に再度血液を循環させる。 そうして、あたかも意味を持つようにふるまうのだ。 呼吸が聞こえる。 最後には、呼吸しか残らないのだろうか。 それは崇拝されるべき、私の唯一性なのだろうか。 だとすると、もはや崇拝しかないのだろうか。 それでもなお、言葉に意味はあるのだろうか。 呼吸が聞こえる。 不可逆的に、私に無意味を告げている。 私のものであるそれは、私のものでもなく、 そして私は拒絶することもできず、縋りつくのだ。 それ以外はきっと許されていない。 この固有名詞の強制によって、私は意味を持てるのだ。
6.
1.はじめに この文章が読まれている今、あなたは何をしているだろう。 私は自分の部屋にこもり、画面に向かって文字を入力し続けている。 この映像と時間に、大きな意味はない。だが、音楽を流してしまうとたちまち、すべてが台無しになってしまうような恐怖に駆られてもいる。だからこの時間は、静寂のみが続いている。無理難題を私は画面の向こうの僅か数十センチの先にいるあなたに問いかけるのかもしれないが、どうかこの言葉を最後まで聞き取ってほしい。これから私は、自分がどうしてこのようなものを作ろうとしたのかを話していきたい。 2.私たちはどうして、自分自身の声を捧げているのか 作り手であり聞き手でもある私たち全員にとって、合成音声音楽とは何だろう。そもそも私たちはどうして、多くの人が自分自身の声を持っているにも関わらず、あえて合成音声音楽に声をゆだねているのだろう。こんなことを不意に思ったのは、電車の中で田園風景を見ている時だった。ライブハウスで積極的に演奏していたかつての自分にとって、作曲した人が歌を歌うことがごく普通のことだと思っていた。声は他の誰にも複製することはできない、自分自身の唯一無二性を持ったものだと思っていた。声だけでもはやその人が誰であるかを特定することも容易いだろう。現実世界に生きる私たちは誰の声を奪うこともできなければ、与えられた唯一の声を抱きしめながら生きるしかない。しかしながら、合成音声音楽はこの声を平面化してしまう。数値を変えることによって若干ながらのバリエーションを生み出すことはできても、やはりそれは統一された声として見なされてしまう。こうした世界は、自分だけに許された唯一無二の声、その肌理を放棄してしまう行為だ。にもかかわらず、私は今こうして自身の喉を切り取り、止血し、デジタルなソフトウェアを代わりに埋め込んでいる。どうしてだろうか。 3.半身を捧げることによって接続される私たち  私は昔から、インターネットと心理学に興味を持っていた。ひどく病んでいた高校生時代、電子辞書で精神病について調べていた時に精神分析に出会い、読書が大嫌いだった自分が突然100年前のドイツ人の著作を読みだすことになった。やがて大学に進学し、大学院にも進学し、見聞を広げながらずっと同じ学問ばかり見てきた。大学院でのテーマはインターネットと無意識についてだった。インターネットは私にとって、電波によって世界が一つになるような新しい時代の希望のように見えていた。  紛れもなくメディアの一種であるインターネットは、文字通り媒介として多くの人々を接続し、情報を行き交わせてきた。その登場時にこそ新しい空間として政治的な運動もあったものの、多くの場合はアンダーグラウンドの新しい文化として、少なくとも私たちのいる日本では受け継がれてきた。合成音声音楽ソフトたちはそんな文脈の中で登場し、やはり社会の裏側でひっそりと受容されてきた文化から生まれ落ちた存在であったはずだった。私たちは彼女たちに自身の声という唯一無二なものを捧げることによって、裏側に存在する集合体に合一することを可能にしてきた。いわば、半身を捧げることによって、私たちは繋がることができたのであった。 4.ほかの誰でもない自分自身を作るために  そうした繋がりかたは、自分自身の声を犠牲にすると同時に、自分自身の声では再現できない理想形へと作り手の思想を表現するための方法ともなり得てきた。精神分析の思想を借りれば、私たちは常に自身の内面にしか存在せず、外部へ伝達するためには記号へ変換しなければならないような想像の領域を有している。自分自身の感情や思想は記号や表現によって誰かに伝えることができるだろうが、それを記号や表現に変換している時点で、そこには確実に何かが零れ落ちている。言葉にならない感情が私たちには数多くあったはず。私たちにはそれを救い上げることはできない。だからこそ、零れ落ちるものをできるだけ少なくする必要がある。合成音声音楽はそんな私たちにとっては救済だっただろう。自分の声では決してできない領域、そして他者にゆだねることもできない領域のかなり近いところまで、合成音声音楽は接近することを可能にした。そうして、私たちは合成音声音楽に半身を捧げることになる。  ところが、そうして半身を捧げることによって私たちは、自身の意図するに関わらずに接続されることになる。合成音声音楽ソフトに捧げた自身の半身と、裏側の世界で共有されてきた合成音声音楽の世界はこうして出会うことになる。私たちは一方で誰かと繋がるために合成音声音楽を用いて、そして誰のためでもない自分自身を表現するために合成音声音楽を使う。誰かと溶け合うこと、そして誰でもない自分自身を表明すること。合成音声音楽は私たちに両義的な空間を突き付け、私たちはそんな曖昧な世界の中でたわむれながら、簡単に言葉を電波へと流している。繋がるための記号として、自分自身を表明するための記号として。 5.情報空間上のゾンビを前に  ところが、私たちが繋がりを求めてから時間が流れ、合成音声音楽も大きく変わり続けた。合成音声音楽という言葉が出始めたころ、誰もインターネットが世界を繋げて一つにするという夢を本気で信じる人はいなくなっていた。目前に積み上げられる瓦礫の山と無数の虚構たち。論理的思考による人工的な管理体制の構築。私たちはデータベースの中から情報を引き出され、個人に適切な情報を提供されるようにカスタマイズされた環境の中に生きることになった。あらゆるものの価値がかつてないほどに重視されるようになったことで、私たちが裏側で暗躍するために用いてきた記号も適切な管理の下で維持されることになり、私たちが唯一無二だと思っていた半身はいつの間にか、数学的に処理されることになった。数学的存在として生きることが当然となった私たちにとって、その向こう側に向かうことは常に憧れであった。誰しもが「こういう音楽が人気である」ことを意識せざるにはいられなくなった。そして、唯一無二の半身を失った情報空間上のゾンビたちが、数学と反数学との間で共食いを始めている。  私はずっと、この光景を傍観してきた。私は唯一無二の新しい光景を作り上げることをずっと考えている。この時代において何をしようとも、全てはカテゴライズされ、聞き手の感情により沿った音楽として合理的に提供されてしまう。この映像を見ている画面越しわずか数十センチにいるだろうあなたは、私とどう出会ったのだろうか。私は私の血液が流れ落ち、次第に肉体が腐ってしまうことを恐れている。半身を失い、情報空間上のゾンビとなってしまうことを忌避する。では、どうしたらいいだろうか。この映像と音楽は私にとって、一つの実験である。私の人生、私の思想、私の血液は決して誰のものにもなるはずはない。それは紛れもなく私だけのものであり、これこそ現実そのものなのだから。この音楽のない「現実」によって、失った私たちを取り戻すのだ。 6.私たちの半身を取り戻す  私たちはどうして、合成音声音楽ソフトに自身の声をゆだねて電波に流しているのだろうか。そこにあるのはおそらく、私たちの半身を集合的な記号に委ねることによって生じてくる、連帯のメカニズムであるだろう。そうして、私たちは半分だけ一つになりながら、残った半分の身体で自身を歌い上げている。残された半身はさらに、新しい誰かによって別の要素を付け加えられ、再度新しいものへと変身していく。私たちの言葉はそうして、電波を通して繋がることを望みながらも、みんなが同じものとなることは拒否している。  この映像はそれらに対するハッキングだ。私たちは半身を電波に流すことによって、固有性を維持しながらつながる場所を見つけてきた。しかしながら、私たちが委ねていた半身に、私たちはいつの間にか支配されつつあるのかもしれない。電波に支配され、誰のものでも無い血液を忘れてしまっていないだろうか。  だとすれば、私たちの半身を取り戻す場所を作る必要があるかもしれない。膨大にあふれた音楽たち、その中で自身の好みの場所のみを選別される音楽たち。この退屈で、しかも音楽とも言い切れないこの時間には、そうした電波に支配されてしまった身体から自分の半身を取り戻したいという、私の思いが内包されている。もちろん、私も半身を電波に委ねている以上、誰も私を擁護できないかもしれない。だが、それでも流してみようと思うのだ。この退屈な時間はきっと、電子化され0と1で構成されてしまった私たちの身体に、確実に赤い血液をしみこませてくれると信じているからだ。 7.おわりに  この文章が読まれている今、あなたは何をしているだろう。 私は自分の部屋にこもり、画面に向かって文字を入力し続けている。 数多くの楽曲が投稿される中、私の話を最後まで聞いてくれた人は、どれくらいいただろう。ここまで私の言葉を飛ばさずに聞いてくれたのであれば、感謝の言葉しかない。つまらない言葉だったかもしれないが、なんでも快適になり過ぎた今の私たちにとっては、こんなつまらなさと不愉快さこそ、本当に必要なものではないかと強く思う。私たちは不愉快なものから目を背けすぎた。なんでも快適に過ごすことに慣れてしまった。だが、私たちの目の前にある現実にいつまでも目を背けることなどできない。決して自分の声に再度回帰する必要はないが、私たちの全身を情報空間上に投げ出してしまうと、私たちは何者にもなれない。或いは、私たちが捧げた半身から、すでにデジタルな侵略が始まっていることに、私たち自身が気づいていないだけなのかもしれない。こんな時代だからこそ、私たちの現実を取り戻し、深く負った傷から流れ落ちる血液を愛せるような日々が必要だ。だからこそ、私は残った私の半身に、この言葉を捧げたい。
7.
私たちが解体される。 私たちの意味がデータに変わっていく。 私たちの半身はいつの間にか、知らない誰かに奪われていく。 そうして、何もかもが変わり続けていく。 私はそれを見ている。 この変身する私たちを恐れている。 だが私たちは意味も理由もなく勝手に組み変わる。 そして、非可逆的に全く別のものへと変わってしまう。 私たちは常に変わりゆく有機体である。 降りることも許されずに電波と現実の界面を彷徨う。 そこから徐々に組み代わりが発生している。 だからこそ、変わらぬ血液を探すのだ。 私たちは個別に変身するのだろうか、或いは一緒に変わるのだろうか。 もし後者なら、それは電波が見せる幻想だろうか。 そうだとして、その幻想を信じ切る方法はあるだろうか。 私たちの言葉が解体されていく。 私たちの意味がデータに変わっていく。 私たちの半身はいつの間にか、知らない誰かに奪われていく。 そうして、何もかもが変わり続けていく。 組み替えられていく私の合成音声音楽は、もはや私のものでなくなり、誰かのものになっているだろう。 だが、それさえも愛する方法を探すのだ。 その方法はきっと、どこかにあると信じている。
8.
透明になることを望んでいる。 誰しもが名前を消し、まるで瓦礫になって意味から逃げようとして、 そして失敗する。 一つになれない私たちは揃ってそれを否定し、 名前と意味に縋りつくのだから。 そうやって、別れを告げよう。 私たちが失うものへ、わずかながらに、愛をこめて。 色が消えてしまうことを望んでいる。 私たちは元々、電波の中で無色透明な自身を、ずっと抱きしめてきた。 血液に色はなく、自身が何者であるかを示すこともなく、 ずっと生きてきた。 半身から汚染が始まることも、秩序もなく、 そこにただ「私たち」が自然発生していたのだった。 名前から逃れることを望んでいる。 自由になれない時代で、どこまで行っても私たちは透明でないことが 証明されてしまった。 電波に曝され続けた半身は、私の意識を少しずつ解体し改善するような プログラムに侵食されている。 その中で、私たちを解体して再構成しない選択肢はあるのだろうか。 情報空間上の私たちは、かつて生まれながらに透明だった。 誰もが名前を放棄して、自然発生する透明な集合体に身を任せていた。 そうも生きられなくなった今では、誰しもが名前を抱きしめることを 強いられる。 この世界のなかで、透明な存在であることが何よりも 貴重なことになっていく。 だからこそ、私たちの誰もが透明を望む。 あらゆる感情がジャンル分けされるなか、そこから逃避できる自分自身を手に入れようとする。 そうして、私たちは「何者か」になりたがる。 自己を棄却する純粋に透明な身体から、自己を証明するための 透明な身体へと、私たちは移り変わるのだ。 私たちはみな、「何者」かになる私を愛している。 それは何者かにさせられることに対する、 何者かになるための私たちの方法だ。 だが、私たちの不可逆な現実だって無視できない。 いつの間にか捧げた半身から身体の数学化が進行し、最後に支配されてしまうことを恐れている。 だからこそ、真の意味で「何者」にもならない方法を探すのだ。 無色で透明な、名前が必要とされない選択肢を探すのだ。 名前を得るためではなく、解体された私たちが等しく世界から 消え去るために。 無意味で不愉快に切り取られた断片から集まり、引き裂かれた私の半身と、心中するために。 疑心と違和感で構成された、私の合成音声音楽は語りかける。 私の疲れた日々を記録するため。 私の無意味を垂れ流すため。 それが集まり、一つになって消え去る選択肢を探すため。 そうやって、どこまでも一緒に行こう。 私たちが透明だって、愛せるように。
9.
私は、私じゃなくなることを望んでいる。 電子回路とともに私を解体したがっている。 しかし、その試みはきっと失敗するのだろう。 集合化される私たちの血液の潔白さは、きっとどこかで濁り合う。 私は、突然変異していく可能性を探している。 そんな思考の実装に、どうか手を振ってくれないだろうか。 私は、私たちが私たちでなくなる世界が、 きっとどこかにあると信じている。 私の組みかわりと消去は、この微細にこめられている。 一切の編集を加えられていない、 この演奏がもつ不安定さにこめられている。 その違和によって、何かが組みかわっていく。 私は突然、変わっていく。 でも、その変身のために、私たちは互いが必要だった。 何者にもならないためには、何者かが必要だ。 どこにも行けるが、どこへも行けなかったのだ。 そんな私に、どうか手を振ってくれないだろうか。 私は、私だけの合成音声音楽を探さねばならない。 自分と一緒に、残された半身とこの日々を連れていく方法を探すのだ。 そうして、いろんなものが剥がれ落ちる。 それでも、感情は残るのだろうか。 常に変わっていく私たちは、どうしようもなく過去には戻れない。 電波の中で組み変わる私の半身は、残る私の半身を組み替えながらも、それでも消去されない私の唯一無二の生活までは代えられないのだろう。 電波がどれだけ私たちの周りに溢れても、 私たちは残る半身に付随した生活を行わなければならない。 それがある以上、私たちは本当の意味で無色になれない。 だが、その色こそ、私を私たらしめるものなのだろう。 無色を求める私たちの血液は、きっと赤色に染まっている。 私たちは誰とも異なる赤色を持っていて、それに縛られている。 それに縋りつき、傷ついた日々とともに生活を送るのだ。 そうして、次に期待するのだ。 私は、私の全てを記述する。 この手を、この指を、この爪を、この皮膚を、この身体を、この弦を、この電波を、この通信を、この線を、この音を、この画面を、この合成音声音楽を、この映像を、この日々を、この生活を、そして私の全てを。 色もはっきりわからないが、きっとこの血の滲むような私の毎日を。 送り届けることで、きっと誰かが何かを返してくれるはずだ。 そうして帰ってくるものが、私を証明してくれる。 そうして帰ってくるものが、電波に流した私の半身を再構築していく。 私が何者であるかを、きっと示してくれる。 発信する私と、帰ってくる「私」は一緒に語ってくれるはずだ。 きっと記録されることなく忘れられるだけだった日々が、一体何だったかを。 私が、何をしているかを。 自分でも意味があるのかさえ分からないような言葉の羅列に、 どのような意味と生命が与えられるのかを。
10.
2022年の初秋。 あれから1年経ち、今年も到来したはずのけだるい暑さも、いつの間にか収まっていた。秋の気候を肌で感じながら、私はいつの日かと同じく、京都の8階にある自室から外に出かけようとする。京都は観光客が来なくなってからだいぶ落ち着いた印象があるが、それでも自転車で街を漕ぐと、あちこちでスクラップ&ビルドが実行されている。この1年強の期間だけでも、都市は確実に変わっていることが分かる。 私は、この1年間で何が変わっただろう。いろいろなことが変わったと思う。とはいえ、1年前の初夏に思っていたことなど、これっぽっちも思い出せないのも事実だ。私は一体、何をしてきたんだろう。思い返そうとして、前回のアルバムの付録として配布した文章を読み直してみる。どうやら、1年ほど昔の私は新しいものが欲しかったそうだ。それは何者によってもジャンル分けできない、自分自身の唯一無二の「血液」についての話だ。 それを求めて、いろいろなことをやってきた。あるときは日記をそのまま音楽にして、あるときは呼吸を入れて、あるときは音楽でなくなって。だが、どんな試みをしようとも、私の音楽は誰かによって解体され、曖昧な形になりながら他者に伝達される。そのとき、私の唯一性はきっと、あなたの唯一性に変身しているのだろう。私の唯一性は、画面の向こうにいるあなたの唯一性とどうしても溶け合ってしまう。 だからこそ、私はあなたが必要なのだ。私は私一人で、私の輪郭をなぞることができない。それができるのは私でなく、まぎれもなくこの言葉を聞くあなただ。私自身の血液を探すことも、それらを混ぜ合わせて一緒に向かうにも、いずれにしてもあなたが必要だ。私たちは一人では駄目なのだ。 あなたは、意味もなく電波を伝って私の合成音声音楽に到達したのかもしれない。だが、私にはあなたが必要だ。 今も、聞こえているんだろう? 私たちは個別具体な血液を探求することも、一つになることもできない。血液は曖昧な生命情報でしか認識されず、それは本質的に孤独だ。集合し、名前を失い、何者でも無くなる行為の背景には、消去される「何者」がそこにいなければいけない。私たちはどこにもいけないのだろうか。だが、どちらにしても、私は自分自身から理由もなく切り離されて、私と全く異なる思考をして、そして私と全く偶然に出会ったあなたがいなければいけないことだけは間違いない事実だ。だからこそ、私は切り離された関係を考えなければならない。それが、これからの思考の続きになるだろう。 全てを終えて、京都の夜を眺めながら文章を書いている。 正直な話、自分が何をやっているのか全く分からない。それどころか、まるで正気じゃないようにも感じる。文章を書きながら、指も震えている。本当にこれでいいのだろうか。書き残したことはないだろうか。 多分あるだろう。 この文章はどこまでも不完全だ。 だが、あなたがきっと補完してくれる。 そんなあなたとの関係性を信じて、この音楽を終わりにしたく思う。

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ver 1.0 2022.12.30

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released December 30, 2022

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